忠岡町の歴史

更新日:2025年07月30日

忠岡町の歴史
時代 内容
縄文・弥生~奈良時代  本町域においては、縄文式、弥生式時代の遺跡は確認されておりませんが、周辺の状況からみて、早くから人が住み、5世紀前後から、中央集権の支配下に入り、住民は一部が魚貝を朝廷に貢進する網曳、大部分が名代軽部として、農魚の生活を続けていたと考えられます。
その後、大化の改新により里制が敷かれ、本町域は軽部里に属することとなりましたが、霊亀元年(715年)郷里制の施行によって、軽部里は軽部郷となりました。
平安時代まで  大化の改新以来の制度のうち、本町域において、明瞭に遺制の認められるのは、条里制です。大化の改新の公地公民制が次第にくずれ、荘園が成立していく過程の中で、網曳御厨、宇多勅旨(宇多天皇による勅旨田)が成立し、発展して不輸不入の荘園となり、軽部郷の領域は縮小しました。これが国□領軽部郷です。
宇多荘は、応仁、文明の大乱後、変質、衰退し、消滅しました。
軽部郷南方は永享2年(1430年)久米田寺領となりました。
軽部郷北方、網曳御厨が南北朝内乱でどうなったかは不明です。
戦国時代  戦国期には、忠岡の村々は秀吉の勢力下にありましたが、現在の忠岡の基礎をなす地名が文献にあらわれてくるのは、文禄3年(1594年)検地からです。
和泉国泉郷…忠岡村(字:生帰、浜塚、道村、下村、西出、南出)、上馬瀬村、下馬瀬村、北出村、高月村
江戸時代  その後、江戸時代の初期には忠岡の村々は、すべて幕府の直轄領となりましたが、その後の変遷を経て、天明6年(1786年)以降、幕末に至るまで、一橋領、小泉藩領、淀藩領として領主支配が固定しました。
明治時代~  以後、明治初期の変遷を経た後、明治22年4月1日には、町村制施行により、忠岡村と、高月村、北出村、馬瀬村が合併して忠岡村となり、さらに、昭和14年10月1日、町制施行し、現在に至っています。 町村合併の激しい我が国において、明治22年(1889年)の町村制施行以来、100年有余にわたって、町域に変更なく現在に至っているのは、極めて珍しく、本町の特徴の一つと言えます。