忠岡町 ■忠岡町はどこにあるの? ■
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概要
 本町は大阪府の西南部、大阪湾に面する臨海平坦部に位置し、北東は大津川・牛滝川を境界に泉大津市・和泉市、南西は岸和田市に隣接していて、東西に長く、南北に短い地形で、その面積は4.03kuです。また、大阪の中心部からは電車で約30分の通勤圏に位置しています。全域が市街化されていて、臨海部と大津川左岸は工業地として利用され、中央線以南は南海本線忠岡駅周辺とシビックセンター周辺部の商業地を中心に住宅が広がっています。
面 積 4.03ku
位 置 東経135°23′北緯34°29′
人 口 18,158人(男:8,808人/女:9,350人)
世帯数 7,037世帯
  (2005年2月末)
歴史

縄文・弥生

〜奈良時代

 本町域においては、縄文式、弥生式時代の遺跡は確認されておりませんが、周辺の状況からみて、早くから人が住み、5世紀前後から、中央集権の支配下に入り、住民は一部が魚貝を朝廷に貢進する網曳、大部分が名代軽部として、農魚の生活を続けていたと考えられます。その後、大化の改新により里制が敷かれ、本町域は軽部里に属することとなりましたが、霊亀元年(715年)郷里制の施行によって、軽部里は軽部郷となりました。
〜平安時代  大化の改新以来の制度のうち、本町域において、明瞭に遺制の認められるのは、条里制です。大化の改新の公地公民制が次第にくずれ、荘園が成立していく過程の中で、網曳御厨、宇多勅旨(宇多天皇による勅旨田)が成立し、発展して不輸不入の荘園となり、軽部郷の領域は縮小しました。これが国□領軽部郷です。宇多荘は、応仁、文明の大乱後、変質、衰退し、消滅しました。軽部郷南方は永享2年(1430年)久米田寺領となりました。軽部郷北方、網曳御厨が南北朝内乱でどうなったかは不明です。
戦国時代  戦国期には、忠岡の村々は秀吉の勢力下にありましたが、現在の忠岡の基礎をなす地名が文献にあらわれてくるのは、文禄3年(1594年)検地からです。
 和泉国泉郷・・・忠岡村(字:生帰、浜塚、道村、下村、西出、南出)、上馬瀬村、下馬瀬村、北出村、高月村
江戸時代  その後、江戸時代の初期には忠岡の村々は、すべて幕府の直轄領となりましたが、その後の変遷を経て、天明6年(1786年)以降、幕末に至るまで、一橋領、小泉藩領、淀藩領として領主支配が固定しました。
明治〜   以後、明治初期の変遷を経た後、明治22年4月1日には、町村制施行により、忠岡村と、高月村、北出村、馬瀬村が合併して忠岡村となり、さらに、昭和14年10月1日、町制施行し、現在に至っています。
 町村合併の激しい我が国において、明治22年(1889年)の町村制施行以来、100年有余にわたって、町域に変更なく現在に至っているのは、極めて珍しく、本町の特徴の一つと言えます。